年間第30主日(世界宣教の日)の分かち合い

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年間第30主日(世界宣教の日)の分かち合い

2021年10月24日
 

第一朗読(エレミヤ317-9

エレミヤの預言

主はこう言われる。

ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。

諸国民のために叫びをあげよ。

声を響かせ、賛美せよ。そして言え。

「主よ、あなたの民をお救いください。

イスラエルの残りの者を。」

見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し

地の果てから呼び集める。

その中には目の見えない人も、歩けない人も

身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。

彼らは大いなる会衆となって帰って来る。

彼らは泣きながら帰って来る。

わたしは彼らを慰めながら導き

流れに沿って行かせる。

彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。

わたしはイスラエルの父となり

エフライムはわたしの長子(ちょうし)となる。

 

 

第二朗読(ヘブライ51-6

ヘブライ人の手紙

 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを(ささ)げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の(あがな)いのために供え物を(ささ)げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。

 同じようにキリストも大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、

「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」

と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、

「あなたこそ永遠にメルキゼデクと同じような祭司である」

と言われています。

 

福音朗読(マルコ1046-52

マルコによる福音

 イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人(もうじん)が道に

座って物乞(ものご)いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼は、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人(もうじん)は上着を脱ぎ捨て、(おど)り上がってイエスのところに来た。イエスは「何をしてほしいのか」と言われた。盲人(もうじん)は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 

今日の分かち合い

今日の福音は、イエスがバルティマイという盲人をいやす話が読まれました。このバルティマイは、イエスが来たことを知ると、ずっと自分を(いや)してくれるように叫び続けました。そこでイエスはバルティマイを呼んで「何をしてほしいのか」と問いかけ、彼の望み通りに目が見えるよう(いや)したわけです。

 このイエスの「何をしてほしいのか」という問いかけは、実は先週の福音箇所にもあった言葉です。使徒ヤコブとヨハネが、イエスに願いを(かな)えてしいと望み、イエスが「何をしてほしいのか」と聞くと、彼らはイエスが栄光を受ける時、その右と左に座らせてほしいと言いました。バルティマイの願いも、ヤコブとヨハネの願いも、言ってみればどちらも自分自身のための願いであります。しかしその質は、かなり異なっていると思います。バルティマイは、一心に自分の苦しみから救われたい、その気持ちで、自分を救ってくれるであろうイエスに叫び求め続けました。一方、ヤコブとヨハネは、もちろんイエスが栄光を受けるような方であると理解してはいますが、バルティマイのような苦しみの中からの叫びではなく、あくまで自分の欲のため、イエスと並ぶような位にいたい、そんな願いを持っていたわけです。どちらの願いが聞き入れられるでしょうか、もちろん、バルティマイの方ですね。心からイエスを自分の救い主であると信頼し、全てを(ゆだ)ねる、そのような願いを、神は、イエスは、見捨てることなく必ず聞き入れてくれる、ということ、これが今日の福音の一番のメッセージなのではないかと思います。

 ちょうど今日は世界宣教の日に当たっています。宣教地で働く人々を思い起こして祈る、そんな日でありますが、宣教地とはどこのことを指しているでしょうか。それは、特定の国や場所だけを指すのではありません。まさにバルティマイのように、自分の苦しみから救われたいと叫び続けている人々がいるところです。そうした人々に、あなたもイエスによって救われることができるのだ、という喜びの知らせ、福音を伝える、それが宣教であるのです。自分の周りにも、目の前にも、宣教すべき場所があるかも知れません。ご存知の通り、私たちは司祭・修道者という立場に関わらず、洗礼によって、皆、宣教への使命を受けています。 

今日行う幼児洗礼式は、その使命を受ける新しい仲間を喜んで迎え入れるものでもあります。この世界宣教の日にあって、故郷を離れ、遠い異国の地で宣教に励む人々への祈りを(ささん)げるとともに、私たち自身の宣教の使命をも思い起こし、自分のでき限りの宣教を行うことができるように祈りましょう。そしてそのためにも、まずは自分自身が、模範となって多くの人に信仰を示せるよう、神であるイエスに全てを(ゆだ)ね、信頼する心を強められるよう、その助けと恵みを日々の生活の中から願い求めてきましょう。

荒田神父