年間第6主日2024年2月11日 (日)の分かち合い
年間第6主日2024年2月11日 (日)の分かち合い
第一朗読創世記3・16-19
創世記
神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」
第二朗読①コリント10・31-11・1
使徒パウロのコリントの教会への手紙
皆さん、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
福音朗読マルコ1・40-45
マルコによる福音
そのとき、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
年間第6主日2024年2月11日 (日)の分かち合い
今日の福音では、イエスが重い皮膚病の人を癒す場面が描かれています。この中でイエスは深い憐みをあらわにし、重い皮膚病の人に触れて、その病を癒されました。そして癒された人はモーセの定めに従って、清めのための献げものをするように、イエスは伝えます。皮膚病患者に対する扱い、そしてその清めの儀式については、レビ記に詳細に書かれていますが、皮膚病の人は汚れた者として扱われ、宿営、すなわち人の居ることろから隔離されていたようです。イエスは深い憐みを示したのは、単に病に苦しんでいたということだけではなく、その人の置かれていた状況にありました。さらに憐みという言葉は、原文では腸に関連する言葉であり、怒りや愛によって同じく自らも苦しむことを意味する言葉でもあります。そういった中で私たちが如何にして、イエスが示した憐みを示すことができるのか、またイエスが示した癒しに与ることができるのかを考えるにあたって、少し分かち合いをしたいと思います。
海外司牧研修の2年目の聖週間の時期、私は小さな島に住んでいました。そこには本島とは別に、さらに小さな島が二つあり、そこに4つの共同体がありました。そこを主任司祭と助祭で回っていたのですが、移動の関係上、聖週間中は教会から司祭を派遣できない状態にありました。そこで島の人が神学生でもいいから送ってほしいとのお願いがあり、私が派遣されました。私は外国人で言葉も不自由ということもあり、中々共同体の中に入れなかったですが、その島の人々はいつも歓迎してくれていたことをよく覚えています。しかし聖金曜日の受難の典礼の時、パンフレットが不足していたこともあり、一人で受難の福音と盛式共同祈願を唱えていましたが、文章自体が難しく、長いことから、私自身うまく読めず、聞いている会衆の顔が引きつっていたことは未だに覚えています。非常に申し訳ない思いをしながら、徹夜祭と復活の日中のみことばの祭儀を行っていましたが、最後に共同体のリーダーが全体に言った言葉はよく覚えています。彼女は「私たちはこの神学生の言っている言葉が聞き取りづらくて、苦しかったかもしれない。それでもこの神学生は、それ以上に苦しんで頑張ってくれたからこそ、こうして復活祭の喜びに与った」と言ってくれました。その時に共同体に受け入れることは、私たちの持っている問題、苦しみを共に担おうとすることにあるのだと思いましたし、これが「憐み」なのだということを感じました。
福音の中で、イエスは権力や名誉を嫌い、癒しのわざを行ったことを口止めしたにも関わらず、癒された人はそのことを言い広めます。そして「大胆に宣教をし始め、そのことばを広めた」と書かれています。これは福音宣教を意味しており、自分にも救いがあるという喜びを告げ知らせることなのだということを同時に示しています。私たちは様々な問題を一人で抱えがちですが、それを分かち合うことがイエスの癒しに与ることを意味しています。そして、その癒しを同時に人々に伝えることこそが私たちにおける福音宣教です。それは私たちが苦しみを担ってもらったことを忘れず、私たち自身も人の苦しみの担い手となることを示し、その中にイエスの示した憐みがあるのだと感じます。
私たちが、周りの人々の苦しみを受け入れ、イエスが示した憐みをほかの人々にも示すことができるようこのミサの中で祈り求めていきましょう。
森神父