年間第30主日 2024年10月27日(日)の分かち合い

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年間第30主日 2024年10月27日(日)の分かち合い

2024年10月27日
 

年間第30主日 20241027日(日)の分かち合い

第一朗読エレミヤ317-9

エレミヤの預言

(しゅ)はこう()われる。

ヤコブのために(よろこ)(うた)い、(よろこ)(いわ)え。

諸国民(しょこくみん)(かしら)のために(さけ)びをあげよ。

(こえ)(ひび)かせ、賛美(さんび)せよ。そして()え。

(しゅ)よ、あなたの(たみ)をお(すく)いください

イスラエルの(のこ)りの(もの)を。」

()よ、わたしは(かれ)らを(きた)(くに)から()(もど)

()()てから()(あつ)める。

その(なか)には()()えない(ひと)も、(ある)けない(ひと)

()ごもっている(おんな)も、臨月(りんげつ)(おんな)(とも)にいる。

(かれ)らは(おお)いなる会衆(かいしゅう)となって(かえ)って()る。

(かれ)らは()きながら(かえ)って()る。

わたしは(かれ)らを(なぐさ)めながら(みちび)

(なが)れに沿()って()かせる。

(かれ)らはまっすぐな(みち)()き、つまずくことはない。

わたしはイスラエルの(ちち)となり、エフライムはわたしの長子(ちょうし)となる。

 

第二朗読ヘブライ51-6

ヘブライ人への手紙

大祭司(だいさいし)はすべて人間(にんげん)(なか)から(えら)ばれ、(つみ)のための(そな)(もの)いけにえを(ささ)げるよう、人々(ひとびと)のために(かみ)(つか)える(しょく)任命(にんめい)されています。大祭司(だいさいし)は、自分(じぶん)自身(じしん)(よわ)さを()にまとっているので、無知(むち)(ひと)(まよ)っている(ひと)(おも)いやることができるのです。また、その(よわ)さのゆえに、(たみ)のためだけでなく、自分(じぶん)自身(じしん)のためにも、(つみ)(あがな)いのために(そな)(もの)(ささ)げねばなりません。また、この光栄(こうえい)ある任務(にんむ)を、だれも自分(じぶん)()るのではなく、アロンもそうであったように、(かみ)から()されて()けるのです。

(おな)じようにキリストも、大祭司(だいさいし)となる栄誉(えいよ)()自分(じぶん)()たのではなく、

「あなたはわたしの()、わたしは今日(きょう)、あなたを()んだ」と()われた(かた)が、それをお(あた)えになったのです。

また、(かみ)()個所(かしょ)で、「あなたこそ永遠(えいえん)に、メルキゼデク(おな)じような祭司(さいし)である」と()われています。

 

福音朗読マルコ1046-52

マルコによる福音

イエスが弟子(でし)たちや大勢(おおぜい)群衆(ぐんしゅう)一緒(いっしょ)に、エリコを()()こうとされたとき、ティマイの()で、バルティマイという盲人(もうじん)道端(みちばた)(すわ)って物乞(ものご)いをしていた。ナザレのイエスだと()くと、(さけ)んで、「ダビデの()イエスよ、わたしを(あわ)れんでください」と()(はじ)めた。(おお)くの人々(ひとびと)(しか)りつけて(だま)らせようとしたが、(かれ)はますます、「ダビデの()よ、わたしを(あわ)れんでください」と(さけ)(つづ)けた。イエスは()()まって、「あの(おとこ)()んで()なさい」と()われた。人々(ひとびと)盲人(もうじん)()んで()った。「安心(あんしん)しなさい。()ちなさい。お()びだ。」盲人(もうじん)上着(うわぎ)()()て、(おど)()がってイエスのところに()た。イエスは、「(なに)をしてほしいのか」と()われた。盲人(もうじん)は、「先生(せんせい)()()えるようになりたいのです」と()った。そこで、イエスは()われた。「()きなさい。あなたの信仰(しんこう)があなたを(すく)った。」盲人(もうじん)は、すぐ()えるようになり、なお(みち)(すす)まれるイエスに(したが)った。

 

年間第30主日 20241027日(日)の分かち合い

 今日(きょう)福音(ふくいん)では、イエスが盲人(もうじん)であったバルティマイを(いや)場面(ばめん)(えが)かれています。この盲人(もうじん)道端(みちばた)(すわ)って物乞(ものご)いをしていると福音(ふくいん)には(えが)かれていますが、当時(とうじ)盲人(もうじん)(はたら)手段(しゅだん)()たず、物乞(ものご)いで生活(せいかつ)をするしかありませんでした。その意味(いみ)でバルティマイの(くる)しみは(たん)に「()()えない」というだけではなく、社会(しゃかい)生活(せいかつ)(おく)ることができず、その共同体(きょうどうたい)(なか)(はい)ることのできない孤独(こどく)さにもあったように思えます。一方(いっぽう)でバルティマイはイエスが自分(じぶん)(すく)(すく)(ぬし)だということを(しん)じて(うたが)いませんでした。福音(ふくいん)(なか)でバルティマイは「ダビデの()イエスよ、わたしを(あわ)れんでください」としきりに(さけ)んでいる様子(ようす)(えが)かれています。福音(ふくいん)(なか)では度々(たびたび)、イエスの弟子(でし)たちの無理解(むりかい)さが(えが)かれていますが、バルティマイはイエスが(だれ)であるかということをよく理解(りかい)していました。それは「ダビデの()イエスよ、わたしを(あわ)れんでください」という(さけ)びから()かります。「ダビデの()イエス」、すなわち、待望(たいぼう)していた(すく)(ぬし)なら(くる)しみから自分(じぶん)解放(かいほう)してくれるという信仰(しんこう)があったのだと()えます。(わたし)たちも自分(じぶん)生活(せいかつ)(なか)で、(くる)しみや問題(もんだい)最中(さなか)にあるときになぜ自分(じぶん)だけと(おも)うことがあります。そういった(なか)でどのようにして、この盲人(もうじん)のように信仰(しんこう)(たも)つことができるのか(かんが)えるにあたって、(すこ)()かち()いをしたいと(おも)います。

 (しん)学生(がくせい)(とき)から、(わたし)自分(じぶん)司祭(しさい)()いていると(かん)じたことは(まった)くありません。(いま)だに自分(じぶん)よりできてもっと上手(うま)司牧(しぼく)できる(ひと)がいるなら、その(ひと)(まか)せた(ほう)がいいのではないかと(かん)じることがあります。その意味(いみ)自分(じぶん)(なん)のために(はたら)いているのかと(かんが)えることは度々(たびたび)あります。その(とき)()(ぼく)体験中(たいけんちゅう)出来事(できごと)(おも)()します。言葉(ことば)があまり得意(とくい)ではなかったので、(おお)くの(ひと)から(たす)けてもらいながら生活(せいかつ)していたこともあり、立場(たちば)があまり(つよ)くなかったこともよく(おぼ)えています。ただその(とき)司祭(しさい)だと(こわ)くて相談(そうだん)できないけれど、あなたなら(はな)しやすいと()われたことを(おぼ)えています。その(とき)(わたし)自身(じしん)()りない部分(ぶぶん)(おお)いですが、その()りなさを(おぎな)いながら、(はたら)いていけば()いということ、そしてその(なか)(わたし)自身(じしん)()りなさであったり、(くる)しみであったりを()()えていくための希望(きぼう)見出(みいだ)していけばよいのだと(かん)じました。そしてその(かたわ)らにいつも(かみ)がいて、(めぐ)みを(そそ)いでくださっていることに感謝(かんしゃ)しなければならないのだと(かん)じました。

 バルティマイは(ひと)からの(ほどこ)しによって生活(せいかつ)をしていたと(かんが)えられますが、自分(じぶん)自身(じしん)(ちから)()きていくことができないことをよく()かっていたのだと(おも)います。そういった(なか)でイエスの(いや)しによって、自分(じぶん)(くる)しみを克服(こくふく)できるのだということを(しん)じて(うたが)いませんでした。同様(どうよう)にイエス自身(じしん)も、(よわ)(ひと)となられながらも十字架(じゅうじか)での()復活(ふっかつ)によって、その(よわ)さ、(くる)しみを()()えることができるということを(しめ)してくださいました。その意味(いみ)でイエスは(わたし)たちの(よわ)さ、(くる)しみを理解(りかい)しており、(わたし)たちが(くる)しみの最中(さなか)にある(とき)も、いつもその(かたわ)らにいて(めぐ)みを(そそ)いでくださるということを(しん)じることが(わたし)たちの信仰(しんこう)です。そうして(わたし)たちが(よわ)さを(おぎな)いながらも、イエスに()かって(あゆ)むことを(しん)じるからこそ、(くる)しみの(なか)にあってもいつも信仰(しんこう)()(ひら)くことができるだと()えます。

 (わたし)たちが(くる)しみの(なか)にある(とき)も、いつも(とも)にいてくださるイエスに感謝(かんしゃ)し、信仰(しんこう)()(ひら)いてくださるようこのミサの(なか)(いの)(もと)めていきましょう。

(森神父)