待降節第3主日(C年)2024年12月15日(日)の分かち合い

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待降節第3主日(C年)2024年12月15日(日)の分かち合い

2024年12月15日
 

待降節第3主日(C年)20241215日(日)の分かち合い

第一朗読ゼファニヤ314-17

ゼファニヤの預言

(むすめ)シオンよ、(よろこ)(さけ)べ。

イスラエルよ、歓呼(かんこ)(こえ)をあげよ。

(むすめ)エルサレムよ、(こころ)(そこ)から(よろこ)(おど)れ。

(しゅ)はお(まえ)(たい)する(さば)きを退(しりぞ)

(まえ)(てき)()(はら)われた。

イスラエルの(おう)なる(しゅ)(まえ)(なか)におられる。

(まえ)はもはや、(わざわ)いを(おそ)れることはない。

その()人々(ひとびと)はエルサレムに()かって()う。

「シオンよ、(おそ)れるな

(ちから)なく()()れるな。

(まえ)(しゅ)なる(かみ)はお(まえ)のただ(なか)におられ

勇士(ゆうし)であって勝利(しょうり)(あた)えられる。

(しゅ)はお(まえ)のゆえに(よろこ)(たの)しみ

(あい)によってお(まえ)(あら)たにし

(まえ)のゆえに(よろこ)びの(うた)をもって(たの)しまれる。」

 

第二朗読フィリピ44-7

使徒パウロのフィリピの教会への手紙

(みな)さん、(しゅ)において常に(つね)(よろこ)びなさい。(かさ)ねて()います。(よろこ)びなさい。あなたがたの(ひろ)(こころ)がすべての(ひと)()られるようになさい。(しゅ)はすぐ(ちか)くにおられます。どんなことでも、(おも)(わずら)うのはやめなさい。何事(なにごと)につけ、感謝(かんしゃ)()めて(いの)りと(ねが)いをささげ、(もと)めているものを(かみ)()()けなさい。そうすれば、あらゆる人知(じんち)()える(かみ)平和(へいわ)が、あなたがたの(こころ)(かんが)えとをキリスト・イエスによって(まも)るでしょう。

 

福音朗読ルカ310-18

ルカによる福音

そのとき、群衆(ぐんしゅう)はヨハネに、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と(たず)ねた。ヨハネは、「下着(したぎ)二枚(にまい)()っている(もの)は、一枚(いちまい)()たない(もの)()けてやれ。()(もの)()っている(もの)(おな)じようにせよ」と(こた)えた。徴税人(ちょうぜいひと)洗礼(せんれい)()けるために()て、「先生(せんせい)、わたしたちはどうすればよいのですか」と()った。ヨハネは、「規定(きてい)以上(いじょう)のものは()()てるな」と()った。兵士(へいし)も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と(たず)ねた。ヨハネは、「だれからも(かね)をゆすり()ったり、だまし()ったりするな。自分(じぶん)給料(きゅうりょう)満足(まんぞく)せよ」と()った。

民衆(みんしゅう)メシア()(のぞ)んでいて、ヨハネについて、もしかしたら(かれ)がメシアではないかと、(みな)(こころ)(なか)(かんが)えていた。そこで、ヨハネは(みな)()かって()った。「わたしはあなたたちに(みず)洗礼(せんれい)(さず)けるが、わたしよりも(すぐ)れた(かた)()られる。わたしは、その(かた)履物(はきもの)のひもを()値打(ねう)ちもない。その(かた)は、聖霊(せいれい)()であなたたちに洗礼(せんれい)をお(さず)けになる。そして、()()()って、脱穀場(だっこくば)隅々(すみずみ)まできれいにし、(むぎ)(あつ)めて(くら)()れ、(から)()えることのない()()(はら)われる。」

ヨハネは、ほかにもさまざまな(すす)めをして、民衆(みんしゅう)福音(ふくいん)()()らせた。

 

待降節第3主日(C年)20241215日(日)の分かち合い

待降(たいこう)(せつ)(なか)ばを()ぎました。この待降(たいこう)(せつ)(だい)3(しゅ)(じつ)は「(よろこ)びの(しゅ)(じつ)」とも()られ、クリスマスのことを()(ぢか)実感(じっかん)するのではないでしょうか。

 

(よろこ)(さけ)べ」、「(よろこ)びなさい」と預言者(よげんしゃ)たちと使徒(しと)パウロは何回(なんかい)()(かえ)しながら()びかけています。しかし、ここで、(よろこ)(さけ)理由(りゆう)とは(なん)でしょうか。この()(なか)で、人々(ひとびと)様々(さまざま)理由(りゆう)(よろこ)びを(かん)じます。それは人生(じんせい)にあらゆる目標(もくひょう)達成(たっせい)した(とき)とか、(のぞ)んだことや(ゆめ)実現(じつげん)される(とき)とか、もしくは(たから)くじに()たったり、大好(だいす)きなプレゼントをもらったり、(なつ)かしい友人(ゆうじん)(ひさ)しぶりに再会(さいかい)したり、子供(こども)成長(せいちょう)家族(かぞく)事業(じぎょう)見事(みごと)成功(せいこう)したりした(とき)、などなどの(とき)です。(たし)かに、それらのことにあってわたしたちは(よろこ)びも(かん)じます。しかし、ここで、キリスト(しゃ)としてのまことの(よろこ)び、かつて預言者(よげんしゃ)たちと使徒(しと)パウロが()びかけた(よろこ)びというのは「(しゅ)においての(よろこ)び」です。また(しゅ)(ちか)くおられ、(しゅ)(われ)らのもとに()られ、(しゅ)(われ)らと(とも)にいてくださるという(よろこ)びです。この()がもたらしてくれる(よろこ)びの特徴(とくちょう)一時的(いちじてき)なものであったり、()くなったりするものに(たい)して、主においての(よろこ)びはかつても、(いま)も、いつまでも、(だれ)から(うば)われることなく、永遠(えいえん)(つづ)くものです。そのため、わたしたちを(おとず)れてくださる(しゅ)は「インマヌエル」、つまり「(かみ)(われ)らと(とも)にいてくださる(かた)」だと()ばれるからです。

 

待降(たいこう)(せつ)()ごし(つづ)けながら、(しゅ)にあっての(よろこ)びを体験(たいけん)できるよう、またそれなりの行動(こうどう)()って(よろこ)びをあらためて(あらわ)すことが出来(でき)ますように(ねが)いましょう。ついで(わたし)たちに出会(であ)(まわ)りの人々(ひとびと)も、(よろこ)びを(かん)じられるように、今日(きょう)のミサを(とも)(つづ)けましょう。

(フォン神父)